北条五代

北条氏家紋「三つ鱗」

北条氏家紋「三つ鱗」

戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。歴代当主五人は、北条五代と呼ばれています。
明応4年(1495)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていきました。二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄しました。そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築きましたが、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城し、北条氏は滅亡しました。
伊勢宗瑞(後の北条早雲)
伊勢宗瑞(後の北条早雲)
伊勢宗瑞(後の初代早雲)は備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身です。伊勢宗瑞と名乗り幕府に出仕していました。長享元年(1487)以降は駿河(静岡県)の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には、将軍足利義政の甥の茶々丸を堀越御所から追い伊豆(静岡県)へ進出します。伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495))に相模小田原(神奈川県小田原市)へ進出し、その後相模一国を平定します。
北条氏綱
北条氏綱
二代氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られています。早雲没後本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物です。また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立しました。
北条氏康
北条氏康
三代氏康は氏綱の死後家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えたことで知られています。天文15年(1546)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大しました。
北条氏政
北条氏政
四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560)に家督を継承しています。永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めを退けています。氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨しますが、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの敗北により切腹しています。
北条氏直
北条氏直
五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承しています。天正10年(1582)には武田氏が滅亡し、次いで織田信長が亡くなる、上野、下野(栃木県)方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達しました。しかし、小田原合戦の敗北の後、高野山へ追放され、その翌年に亡くなっています。こうして、約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配は終わりを告げます。